「慶應の医学部なんてすごいですね!」合コンの度にチクチクと胸が痛んだ。

忘れもしない3月10日。既に慶應医学部に合格はもらっていたが、第一志望だった東大理三の掲示板に自分の番号はなかった。
僕の理三受験を心から応援してくれていた姉は静かに泣いている。

とても家族の顔を見ることができず、自分の部屋に戻った。子供の頃からの夢だった東大医学部生になることができなかった、そう思うと絶望が押し寄せてくる。
今までの人生の中で確実に一番大きな絶望感。6年前の不合格よりもずっとずっと大きな。

「人間、真の絶望を味わうと涙なんて出ないものよ」

どこかで聞いたそんな無責任な言葉の意味が分かった気がした。穴の空いた熱気球がしぼむように全身からヘナヘナと力が抜ける感覚。

初めて涙が出たのは3日後だった。その3日間、何を食べ、何を話し、何を考えていたのかほとんど覚えていない。ただ、「海を見たい」と思ったことだけ。
その頃の自分を受け入れてくれる大きな存在が欲しかったのか、それとも単に「家族に対する申し訳なさ」から逃げたかっただけなのか。

浪人を考える余裕はなかった。もう全てを出し切ってしまっていたから。
そして慶應大学に進学することとなった。そうと決まれば大学生活が始まるのはすぐだった。

大学で使う教材が段ボールに詰められ送られてきた。もちろん福沢諭吉の”福翁自伝”を一番上にして。

そうして迎えた4月1日の入学式。不合格が決まってから3週間足らずであった。文字通り人生を賭けていた戦いに敗れ、そして傷んだ心を癒す時間すら与えられていなかった。当日は春だというのにみぞれのような雨が降っていた。

その哀しみと同時に、いざ都内の男子校を卒業し、大学生になるというだけで期待するものは多く、どんなお友達がいるのかな、と心踊る自分もいた。

日吉の門をくぐり、これからの同級生となる子達らしき集団を見つけた。彼らは皆既に垢抜けていて、流行りの”センター分け”や”マッシュ”の髪型をしている。
女の子はきれいな化粧をし、芸能人かのように堂々としている。おまけに男女ともに背が高く、モデルかと見紛うほどにスタイルが良い。

彼らは皆、塾高、女子高、慶應ニューヨークといった慶應の附属高校からの人たちであった。懇親会なども開催されていたようで、さながら既知の仲であるかのように肩を組み、笑い合っていた。

ガイダンス終わりに、
「記念撮影して、ボウリングでも行こうぜ」
新顔の僕は誘われることなく、独りで帰った。

初めて着たスーツは既にみぞれに濡れ、ずっしりとした重みを帯びている。高校時代の制服とはまた異なる類の重さであった。

家に着き、「どうだった入学式は?」と母が尋ねてきた時、ふと哀しさがこみ上げてきた。
2月下旬のあの寒空の下、迫りくる不安を自信でかき消し、ひとり赤門をくぐった高校生。片や既に内部進学で大学に合格し、遊んでいた彼ら。
「こんなことなら浪人すればよかった」

決して裕福ではない家で、家族にこれ以上迷惑をかけることはできない。慶應に通いながらお金儲けをして私立医学部の学費を返そう。そう誓った。

だが大学生活がいざ始まってみると受験の影に取り残されている暇は少なかった。日々の勉強、そして大学に入ったからにはスポーツを、と始めた部活に精一杯の毎日。少ないながら似たような境遇で笑い合える友人もできた。
もちろん受験と異なり切羽詰まった感じはなかったが、それでもある程度は忙しくしていたように思う。

部活の先輩に合コンに連れて行ってもらったこともあった。
慶應医学部です、と言うと相手方の女の子たちは「すごいですね!」と目を輝かせた。その言葉を言われる度に不思議と胸がチクチクと痛んだ。
頭が良いところが好き、と言ってくれる彼女もできた。
ありがとう、そう応える笑顔の裏にはいつまでも、永く消えない影が残っていた。そう、この先何十年も。

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